私の犬は、雑種の(メス)で、(名前)はコウメ。四歳で、(朝)の散歩は六時半に出る。大学三年の春休みから、この時間に(固定した)。(短縮したい)朝もあるけれど、犬が許してくれない。河原の公園まで十分、公園の中を一周して、帰りは別の道を通る。
公園には、朝の(決まった)(顔)が十人くらいいる。犬を連れている人が六人、体操の人が三人、(新聞)を読む人が一人。(ほとんど)(言葉)を交わさない。犬同士が挨拶をして、人は少しうなずくだけだ。(ありきたり)の朝で、変わったことは何も起きない。
四月に入って、(新しい)人が来た。背の高い男の人で、(黒い)(大きな)犬を連れている。最初の日、コウメがその犬に(走り寄って)、私は慌てて引き戻した。黒い動物の(毛皮)が朝の光でつやつやしていて、息をのむほど(美しい)犬だった。「大丈夫です」と男の人が言った。日本語だったけれど、少し違う(音)だった。
名前はオリバーだと、三日目に(聞いた)。アイルランドから来て、(近く)の研究所で(働いている)。犬の名前はブラン。保護施設から引き取った犬で、年齢は(不明)。獣医の見立てでは七歳くらいだが、(正確に)(決める)方法はないという。
オリバーは、犬を連れていると気さくに(見える)人だ。ただ、最初の二週間は、私も彼もほとんど(黙っていた)。黙っているのが不快ではない、という(種類)の静かさだった。(満足している)犬が二匹、草の匂いを嗅いでいる。コウメは、ブランの(滑るような動き)に引きつけられたらしい。
五月の連休の明けに、公園の(掲示)に(紙)が貼られた。犬の散歩に関する(注意)だった。(放し飼い)の苦情が三件あったという。それから、「犬の毛が芝生に(残る)のが気になる」という意見も書かれていた。(生態的な)話ではないのに、言い方が大げさだった。
その紙を、オリバーが指して言った。「これ、何て(書いてある)の」。彼は(話す)のは(速い)けれど、漢字は苦手だという。私は三つの(項目)を(順番)に読み上げた。読み上げている間、彼は手を止めて聞いていた。
ひもを離さない、糞は(持ち帰る)、芝生の(区域)では座らせない。どれも当たり前のことで、ここの十人は全員(守っている)。苦情は、(たぶん)朝以外の時間に来る人のことだ。四つ目の項目はなく、紙の(残り)は白いままだった。
「じゃあ、(言った)ほうがいい」とオリバーは言った。(管理)の事務所に、朝の人たちは守っていると(伝える)べきだという。(確かに)そうだけれど、私は少しためらった。苦情を言った人に(反論する)形になるのが嫌だったし、(人前で)名乗るのも気が重い。(どうしようもない)性格だと思う。
オリバーは、別の(案)を(出した)。「名前を書こう」。朝の六人の犬と人の名前を紙に書いて、事務所に出す。苦情ではなく、紹介として。「顔の見える六人がいる、と(知らせる)だけ」。
その考え方は、私の(視点)にはなかった。独立した六人が、一枚の紙で一つの集まりになる。(励みになる)発想だった。
ただ、困ったことがあった。六匹の犬のうち、名前を(知っている)のは三匹だけ。(人)の名前は一人も知らない。四年間、毎朝(会っている)のに、だ。(恥ずべき)ことだと思う。自分を怒らせたのは、聞かなかった四年間のほうだった。
「じゃあ、(聞こう)」とオリバーは言った。気さくというより、決定の速い人だ。(平静)を保ったまま、面倒なことを先に(片付ける)。
オリバーは、(少し)(笑って)言った。「十四匹いたら、覚えられないと思うけど」。悪気のない(言い方)で、彼自身もブラン(以外)の犬の名前を知らなかった。
次の朝から、二人で聞いて回った。やり方は簡単で、犬のほうから(入る)。「この子、何ていう名前ですか」。(ほとんど)の人が、温かく答えてくれた。犬の話は、(誰でも)したいらしい。(繊細な)(話題)にはならない。
一週間で、十四匹の名前が集まった。曜日によって来る人が違うので、六匹ではなかったのだ。(子犬)を連れた人、(ハト)を追いかける癖の犬、(キツネ)のような顔の犬。種類は(多様)で、瓜二つの二匹が一組いた。(子猫)を(拾って)一緒に(飼っている)人も一人いる。
人の名前も、同じ数だけ集まった。話が長くなる人もいて、朝の散歩が三十分(延びた)(日)がある。誘惑に負けて、三人でベンチに寄りかかって四十分話した朝もあった。
一週間目の朝、オリバーがベンチで「今、何匹言える?」と聞いた。私は、公園を(一周)しながら十四匹を順番に言った。犬の名前、(飼い主)の名前、来る曜日。一つも間違えなかった。
オリバーは、(途中)で(数える)のをやめた。「覚えられないと言ったのは、(取り消す)」。それから、「表はあなたが(作る)べきだ」と言った。
私が十四行の表を(作って)、犬の名前と人の名前を来る曜日と組み合わせた。字の綺麗さではオリバーに負けるので、下書きだけ彼に(見せた)。「これを(出そう)」と言って、二人で事務所の窓口に(持って行った)。
事務所の人は、表を見て(しばらく)黙っていた。それから、「これ、(助かります)」と言った。表を返すのではなく、そのまま(受け取ってくれた)。苦情を言った人は、(夕方)の散歩の人のことを言っていたらしい。朝の(時間帯)に関する苦情は、一件もなかった。
二週間後、公園の掲示が(増えた)。注意の紙の隣に、(別の)紙が貼られた。「朝六時から七時は、(犬)の散歩の(時間)として使われています」と書いてある。十四匹の名前は載っていないけれど、表は事務所の中に貼られたらしい。(注目に値する)(変化)ではないのに、朝の六人は全員その紙の前で立ち止まった。夕方の(利用者)の(問題)は、まだ解決していない。
六月の第二(土)曜に、オリバーの(研究所)が公園で(観察会)を開いた。彼の仕事は、河原の(水)と土を(調べる)ことだ。子ども向けの会で、参加したのは十八人。
机を三つ並べて、(簡単さ)を優先した(実験)をやった。水に石炭の粉を混ぜて、綿の布で(浄化する)。(固体)の粒が布に残る様子を、子どもたちが順番に見た。(急速に)澄んでいくわけではないので、三分くらい(待つ)。待つあいだに、オリバーが川の(生き物)の話をした。爬虫類はカメだけで、(ワニ)のようなものはいない。(ひれ)の形を見ると、魚の種類が分かる。(明らかな)(特徴)なのだと彼は言った。子どもの一人が「(クジラ)はいますか」と聞いて、全員が笑った。
(絶滅)という言葉が出たのは(一度)だけだ。十年前まで、この川に一種類の貝がいた。今は見つからない。オリバーは、それを(悲劇)のようには言わない。「(数)が減った。(理由)は、まだ分からない」。
会の(終わり)に、子どもの三人が私のところへ来た。コウメの名前を聞いて、それから(他)の犬のことも聞いた。私は十四匹を全部答えた。(もっと遠くの)(木)の鳥についても聞かれて、(らせん状)に(飛ぶ)鳥だと答えたけれど、名前は分からなかった。
六月の末に、公園の清掃の日があった。来たのは十一人。三人は仕事の(都合)で来られなかった。落ち葉と、(空き缶)と、(丸太)の切れ端を片付けた。川の(縁)に(油)のような汚染物質が(浮く)日もあるのに、その朝は水が澄んでいた。
清掃の(あと)、誰かが「これ、(毎月)やりませんか」と言った。(自発的)な(提案)で、反対する人はいなかった。(環境活動家)のような(大きな)話ではない。ただ、朝の一時間を(使う)だけだ。(相互に)顔を覚えたことのほうが、たぶん大きい。
今、私の(携帯)には、十四匹の名前の(表)が(入っている)。オリバーが送ってくれたものだ。彼のブランは、今も(年齢)が不明のままだ。獣医に(行く)たびに「七歳か八歳」と言われるらしい。今のところ、それで(困る)ことは何もない。歳が決定づけるものは、犬にはあまりないようだ。コウメは、ブランの隣で歩くのが(好きになった)。