私の(通学)は、電車で四十分。六時五十二分の各駅停車に(乗って)、中央駅で二回(乗り換える)。家から駅までは自転車で十分。(ヘルメット)をかぶって、(駐車場)の隅に停める。
四月の第二週、(同じ)(車両)に外国人の(女の人)が乗ってきた。二十代で、大きな(手荷物)を持っている。ニュージーランドから(来た)ハンナという人だと、あとで知った。学生のビザで、近所の語学学校に通っていて、朝の方向が私と同じだ。
(最初)の二日は、(何も)起きなかった。三日目の朝、中央駅の(ホーム)で、ハンナが案内板の前に(立って)動かなかった。案内板には、複数の路線が(色違い)で書いてある。乗り換えの番線は、(矢印)だけ。(スピーカー)の放送も(早口)だ。
(横)を通った同じ高校の子が、「ああいうの、駅員に(聞けば)いいのにね」と(言った)。「どうせ日本語が分からないんだから、誰が案内しても同じでしょ」。私は(返事)をしなかった。(丁寧に)言い返す(言葉)も、そのときは思いつかなかった。
私は少し迷って、(口)を(開いた)。「どこへ行きますか」。ハンナは紙を出した。語学学校の住所と、最寄りの(駅)名が書いてある。私の高校の二つ(先)の駅だった。
「同じ電車です」と私は言った。ハンナは、ほっとして小さく(ため息)をついた。それから「(毎朝)、三十分(早く)家を出ている」と言った。(間違える)かもしれないので、余裕を持って(出発している)のだという。三十分の余裕は、毎朝の負担として(かなり)大きい。
その日、(一緒に)乗った。電車の中で、ハンナが案内板の(写真)をスマホで(見せて)くれた。「これが、分からない」。写真の中の矢印は、たしかに分かりにくい。(上向き)の矢印が「直進」なのか「(上の階)」なのか、私も(迷う)ことがある。駅ごとに書き方が違って、一貫していないのだ。
家に帰って、私は紙に線を三本引いた。私たちが(使う)三つの路線だけ。関連しない路線は書かない。駅の(名前)は、乗り換える駅と目的の駅だけ。あとは(点)で済ませた。(消しゴム)で二回、書き直した。
一本目の線の(下)に、「六時五十二分」。二本目の線の下に、「七時十四分、三(番線)」。三本目の下に、「七時二十八分、七番線」。番線の数字(だけ)を大きく(書いた)。
(次の)朝、ホームでハンナに渡した。ハンナは三十秒(見て)、「これだけ?」と言った。「これだけです」。(筋の通った)案内だと思ってもらえたらしい。ハンナは紙を(折って)、手荷物の外側のポケットに入れた。(親指)で押さえて、きちんと奥まで。
その朝、私たちは三本の(線)を一度も間違えずに乗り継いだ。途中の駅で、(昨日)のあの子に(会った)。ハンナが紙を見せて、「この紙、分かる。(案内)板は分からない」と日本語で言った。あの子は紙をのぞいて、三番線と七番線の数字だけ書いてあるのを見た。「……誰が案内しても同じ、って言ったのは(取り消す)」。それから自分のスマホで、紙の写真を(撮っていた)。
その週の金曜、台風が近づいた。朝の(ニュース)で、電車の運行の(案内)が流れていた。駅の(入口)に、紙の(掲示)が出ていた。「強風のため、○○線は十時まで運転を見合わせます」。
ハンナは掲示の前にいた。私も立ち止まって、一緒に(読んだ)。掲示は二枚あった。一枚目は、強風と雷の(注意)。(稲妻)が見えたら(屋内)に入ること、と書いてある。二枚目は、(国内)の便の(到着)の(遅れ)と、港を出る(フェリー)の代行の案内。(地震)や(吹雪)のときの決まりまで同じ紙に印刷してあるので、今日に関係のない行の方が多い。
私は自分の紙を出して、三本目の線を(指)で(隠した)。「この線だけ、止まっています。あとの二本は動いています」。それから、代わりの(方法)を書いた。二本目の駅から、バスで十五分。駅の(南西)の出口から出る。
ハンナはそのとおりに行って、十五分遅れで無事に学校へ(着いた)らしい。(昼)に、(スマホ)にお礼の(連絡)が来た。「バスにも迷わず乗れた。紙の三本目を隠す(やり方)が分かりやすい」と書いてあった。番線の数字を大きく書いたのは、適切だったらしい。午後には(雨)がやんで、空が(晴れた)。
五月の連休前、駅の構内に大きな観光のポスターが並んだ。海岸の写真、(洞窟)の入口、(険しい)(山頂)からの景色。カモメが大洋の上を飛んでいる一枚もある。(北部)の(小島)行きのフェリーの案内には、日没の時刻まで小さく書いてあった。(野生動物)の保護区で働く(森林保護員)の写真と、海洋の生き物の展示の案内も並んでいた。
ハンナはそのポスターを一枚ずつ見て、「ここ、(行ける)?」と聞いた。私は行き方だけを(答えた)。三時間かかる海岸と、(鉄道)で二時間の山。地理の(授業)で名前だけは(覚えた)場所だ。地元では定番の(行き先)で、みんな一度は行くらしい。
「あなたは行ったことある?」と聞かれて、私は「ない」と答えた。十七年(住んでいて)、一度も行っていない。小学生の(ころ)、(遠足)で(近く)まで行ったことはあるけれど、海までは下りなかった。ハンナは(驚いて)、「じゃあ、一緒に行こう」と言った。その日から、(週末)を楽しみにするようになった。
六月の(日曜)、二人で海岸へ行った。乗り換えは三回。私が紙を(作って)、ハンナが持った。駅の案内板は読まなかった。紙だけで、全部着いた。(中間)で一度、(ワゴン車)の乗り合いバスに乗り換える(区間)があって、そこだけ少し緊張した。
海岸は、思ったより(静かだった)。(砂)が黒くて、(波)が(低い)。かすんだ空の下で、(海水)が透き通って光っていた。玉のような艶のある(貝殻)を、ハンナが二つ(拾った)。カモメが二十羽くらい、堤防の上に並んでいる。ハンナは靴を(脱いで)足を入れて、「(凍えるほど寒い)」と言って、すぐに引き返した。それから二人で、堤防にあお向けに横になって、三十分ほど休んだ。(小道)の脇に、(ヒナギク)が散らばるように咲いていた。
帰りの(電車)で、ハンナが自分の(紙)を出した。私の手描きの線の(横)に、ハンナの字で駅名の読み方が書き足されている。ひらがなで、全部。「これで、わたしも作れる」。(上着)を着て、窓にもたれて、そのまま(眠った)。
七月、ハンナは語学学校の三か月の(課程)を(終えて)、別の学校に移った。(路線)が変わるので、(朝)の電車は別になる。(最後)の朝、ハンナが「新しい線は、自分で紙を作った」と言って、見せてくれた。線が四本ある。番線の(数字)が、私の紙よりずっと大きく書かれている。三か月で、ずいぶん(上手)になっていた。
今、私のかばんには、(海岸)の(切符)の半券が入っている。朝の電車は、相変わらず六時五十二分だ。案内板の(前)で止まっている(人)を見ると、私は(少し)待って、(声)をかけるかどうかを(決める)。知らないふりで通り過ぎるのは、もう(やめた)。