四月の第一土曜に、三階の空いていた部屋に人が入った。ノアという(名前)で、カナダから(来た)(大学院生)だ。私は二十二歳の新社会人で、この家に(住んで)二年目。入居が一番早いので、なんとなく世話役の(責任)がある形になっている。
シェアハウスは、五人で一軒。1階が台所と居間、上の二階と三階に部屋が五つ。(住宅)の多い(静かな)通りで、建物は古い。台所の(壁)は、歴代の住人が貼った紙で(いっぱい)だ。ゴミの出し方、風呂の順番、(暖房器具)の使い方。全部、日本語で、どれも(ほこりだらけ)だった。
ノアは(荷物)を二つだけ持って来た。(大きな)スーツケースと、(リュック)。「服は、(こっち)で(買う)」と言った。玄関で靴を(脱ぐ)とき、後ろを振り返って、(通り)の桜を一分くらい(見ていた)。日本語は一般に(挨拶)程度で、込み入った話になると英語になる。五年前に一度、短期の留学を経験しているらしい。私の英語も同じくらいだから、お互い、相手の速さに遅れずについて行くのがやっとだった。
(管理会社)の人が来て、契約の(書類)を(一緒に)(読んだ)。礼金なし、一か月の家賃、共益費を引いた(金額)。退去の連絡は一か月前。契約を(延長)したいときは、2週間前に申し出る。壁に穴を開けないこと。そのあたりは、どこの家も似ている。
書類の最後に、「家のきまり」という(一枚)があった。十二(項目)。管理会社の人が一項目ずつ読み上げて、私が短く言い直した。ノアは全部うなずいていたけれど、たぶん(半分)も伝わっていない。(退屈そう)に見えたのは、分からない話を聞き続けていたからだと、あとで(気づいた)。
管理会社の人が帰ったあと、ノアが「もう一度、(見て)いい?」と(聞いた)。熱心な聞き方だった。きまりの紙を二人で台所のテーブルに(広げた)。日が傾いて、窓から(光)が心地よく入っていた。
(一番目)、ゴミは火曜と金曜の(朝)八時まで。二番目、風呂は(夜)十一時まで。三番目、台所の洗い物はその日のうちに。四番目、暖房器具は部屋を出るとき必ず(消す)。
(5番目)までは、ノアは指で(なぞって)読めた。六番目で(止まった)。「これ、分からない」。読むと、「浴室の(換気扇)は(入浴)(後)三十分回すこと」とある。換気扇という漢字が、確かに難しい。三十分という(数字)がどこから由来するのかも、分からないはずだ。
私は、(テーブル)の上のスマホを拾い上げて立ち上がった。「写真を撮ろう」。
浴室に(行って)、換気扇の(スイッチ)を撮った。指で押している写真にした。それから台所に(戻って)、ゴミ袋の(置き場所)を撮る。暖房器具のつまみを「切」に回し、(手を離した)ところも撮った。洗い物のかごが空になっている状態も、一枚。
十二項目を、十二枚の写真にした。写真に、(短い)(言葉)だけを添えた。「八時まで」「三十分」「切る」「空にする」。(文章)は作らなかった。
ノアは一枚ずつ見て、六番目のところで「ああ」と(声を出した)。「スイッチの位置が分からなかった。(時間)じゃない」。そういうことだったのだ。数字が(障害)になっていると私は(思い込んでいた)けれど、結論は(反対)だった。(文字)を読むより、指の写真一枚の方が即座に伝わる。
写真をノアに送って、ついでに(家)の(みんな)にも送った。二階の大学生が「これ、俺も(助かる)」と即座に(返してきた)。三年住んでいるのに、換気扇を一度も回していなかったらしい。(正直な)人だ。私はその告白を笑って受け止めた。怒る人がいたら(不快な)話になっていたかもしれないけれど、誰も怒らなかった。
日曜日、ノアと二人で(近く)のホームセンターへ出向いた。暖房器具の電池と、(やかん)を買う。この家のやかんは(取っ手)のねじが(ゆるんでいて)、(振り回す)と(危ない)。「新しいのを設置しよう」と私が言ったら、ノアが「設置は、やかんには使わない」と笑って、私を(からかった)。日本語を教わっているのは、私の方かもしれない。
帰りに、ノアは鉢植えを一つ買った。台所の窓際に置くという。「ここは日が入る。花が咲く」。言い方に(確実性)があった。水やりのポンプの付いた(小さな)(容器)も、一緒に買った。鉢の面倒を見る係は、自分がやると言う。
五月の(連休)に、家の大掃除があった。(散らかった)(居間)を片付けて、(棚)の(表面)のほこりを(拭き取る)。ノアは、きまりの十一番目を指して、「これ、今日やる日」と言った。十一番目は「年二回、共用部の大掃除に(参加する)こと」。この家に昔からある儀式のようなものだ。ノアは写真の方で覚えていたらしい。
掃除の(途中)で、二階の大学生が「このきまり、誰が(作った)んだろう」と言った。管理会社だと思って紙を(裏返す)と、古い日付が入っていた。十二年前。最初に住んだ五人が、(相談して)決めたものらしい。それを管理会社がそのまま(使い続けていた)のだと、そこで初めて気づいた。
「じゃあ、変えてもいいの」とノアが聞いた。私は管理会社に(電話した)。すぐに(答え)が返ってきた。「住人の全員が同意すれば、項目を増やしてもいい」。(説得する)(必要)さえなかった。
その夜、五人で居間に(集まった)。追加の(案)を(出し合って)、二つ決まった。十三番目、「鉢植えに(水をやった)人は、カレンダーに印をつける」。十四番目、「写真の版を、新しい住人に(渡す)」。衝突はひとつもなかった。ここで五人がもめたら(厄介)だと覚悟していたのに、十分で終わった。ゴミ出しの(曜日)を(忘れがちな)人が一人いて、その人も「忘れる傾向があるから、写真は助かる」と(認めた)。
ノアが、自分の(スマホ)で十三番目と十四番目の写真も撮った。カレンダーの印と、写真の(ファイル)を開いた(画面)。二枚とも、私が撮るより美しく撮れていて、少し(恥ずかしさ)があった。
六月、(別の)(部屋)の人が(引っ越した)。(まもなく)新しく入ったのは、大阪から来た二十代の(男の人)だ。(双子)の兄がいるそうで、同じ顔の人が(時々)、1階に(現れる)。(親戚)が多い家らしい。ノアは(玄関)で自分のスマホを出して、十四枚の(写真)を見せた。「これ、家の(きまり)。日本語、(少ない)から大丈夫」。(うれしそうな)顔で説明していた。
今、台所の壁の(古い)(紙)は、まだ剥がしていない。十二年分の(インク)が(残っている)から、永久に保存しておこうと決めた。(不便)なことは、(今のところ)何もない。窓際の鉢植えには、今週、(白い)(花)がぱっと(咲いた)。カレンダーの(印)は、ノアと私が交互につけている。