四月から、うちのコンビニに新しい(バイト)が(入った)。ケビンという(名前)で、フィリピンから来た留学生だ。僕と(同じ)(大学)の一年で、経済学の学部にいる。日本語はあいさつと数字と、「ありがとうございます」までは(完ぺき)だった。
初日のシフトは、僕と同じ夕方の五時から九時まで。店長は(忙しくて)、「高梨、あとは頼む」と言って事務所に(入った)。(説明)の時間は、(少なくとも)三十分はほしかったのに、十分で(終わった)。
レジの操作は、ケビンは三十分で(覚えた)。合計の(金額)を読み上げて、(支払い済み)のレシートを渡す。(現金)と、カードと、スマホの(決済)。数字に強いので、(お釣り)の計算はむしろ僕より速い。問題は、言葉が必要な場面だった。客の反応を見ながら、次の一言を選ぶところで止まる。
「袋はご(利用)ですか」。この一文が、(最初)は出てこなかった。それと、「お箸は何膳お付けしますか」。数量を聞く日本語は、(形)が(複雑)で、覚えるのが大変だ。ケビンは紙に書いて、カウンターの内側に貼った。(ライター)の置き場所を聞かれたときは、僕が(代わり)に答えた。
七時を過ぎると、(弁当)に割引のシールを貼る(作業)が(始まる)。ここで、ケビンが完全に(止まった)。うちの店の(ルール)は、こうだ。弁当とおにぎりは、消費期限の三時間前から二十パーセント引き。パンは二時間前から、サンドイッチは四時間前から。惣菜のうち、揚げ物だけは閉店の一時間前に三十パーセント引き。
このルールは、店の壁に紙で貼ってあった。(字)が小さく、(表)が(細かく)、言葉の使い方も不十分で、日本人の僕でも最初の一週間は間違えた。ケビンは紙の前に立って、五分動かなかった。
「これ、覚えないと、仕事できない」とケビンは(言った)。僕は「覚えなくていい」と答えた。(それから)、レジ裏の(空いた)紙を一枚(取って)、時計の形を描いた。
(見ていた)(先輩)のバイトが、(横)から「そんな絵で分かるわけない」と言った。三年目の(人)で、壁の紙を全部覚えている人だ。僕は何も言い返さなかった。
(縦)に四本の線を引いて、弁当、パン、サンドイッチ、揚げ物。(横)に(時刻)を書いた。七時、八時、九時、十時。(それぞれ)の(枠)に、割引のパーセントだけを数字で入れた。言葉は使わなかった。
「これ、何時に何を(貼る)か、だけ」。ケビンは紙を受け取って、しばらく(見て)、「分かる」と言った。それからカウンターの内側に、自分で貼った紙と(並べて)、テープで留めた。
七時十分、先輩が棚の(前)でケビンを(試した)。「このパンは何(パーセント)」。ケビンは紙を見ずに「二十」と(答えた)。(サンドイッチ)は四時間前から、揚げ物は閉店前。三つとも(合っていた)。先輩は壁の紙の方をもう一度見て、「……その絵、俺にも一枚くれ」と言った。
その日の七時から、ケビンは一人で弁当の棚をやった。僕は冷凍のケースを見ていた。(凍った)食品の数量を(数えて)、(発注)の数を決める。(供給者)から(届く)箱の数は、月曜と木曜で(違う)。期待していたより早く、ケビンは棚を終えて、こっちへ来た。
「(ブロッコリー)の袋、二つしか売れていない」とケビンが言った。(有機)の野菜のコーナーは、うちの店ではあまり動かない。(いちご)のパックも、よく(熟して)ジューシーなのに(値段)が(高い)ので、学生街では売れ残りやすい。(しょうが)のチューブとエビのパックだけは、いつも同じ数だけ減る。
九時に、二人で(ゴミ)を(まとめた)。リサイクルの(箱)に、ペットボトルとアルミ缶を(分ける)。缶詰の空き缶は燃えないゴミ、(包み紙)は燃えるゴミ。床が水で(滑りやすい)ので、僕がモップをかけた。(資源)の分け方は、ケビンの国の方が細かいらしい。
休憩室で、ケビンがノートを開いた。(経済学)の授業の(課題)だった。一か月の生活費を(見積もる)表を、自分で作らないといけないらしい。(項目)が日本語で並んでいて、ケビンは半分くらいしか読めていなかった。
(家賃)、光熱費、食費、通信費。そこまでは分かる。その下に、(年金)、(保険)、貯蓄、(銀行口座)の欄があり、さらに下が「(所得)」と「収入」と「(費用)」と「(赤字)」。学生の課題にしては、項目がかなりの数だった。いちばん下の行が「毎月の合計」だ。
僕は項目の横に、数字の(例)だけを書いた。年金は、(学生)なら(手続き)で猶予になることがある。保険は、学校を(通して)入っている分がある。貯蓄は、残った金額を書くだけ。(株主)の配当や融資の返済を書く(欄)は、学生なら全部ゼロでいい。「僕も去年、同じ課題をやった」と言ったら、ケビンは「じゃあ、答えを(見せて)」と笑った。見せなかった。
(節約する)項目だけ、ケビンは自分で埋めた。昼を(自炊)にすると、一か月の食費はかなり減る。減少の(幅)を、ケビンは円単位まで書いていた。「買う余裕があるかどうかじゃなくて、(好み)の(問題)」とケビンは言った。ピーナッツを一袋ずつ買う(習慣)は、やめないつもりらしい。
「経済学の(先生)は、消費と所得の差だけ見る」とケビンは言った。「でも、(実際の)(生活)は、割引のシールの時間で決まる」。それは、たぶん(本当)だ。宝くじより、七時の割引を見逃さない方が(確実)だと思う。
(次の)週、店長が壁の紙を見て止まった。ケビンが作った表が、僕の手描きの時計の絵の横に、きれいに書き直して(貼ってあった)のだ。線が(定規)で引かれていて、数字が大きい。僕のものより、ずっと読みやすい。
「これ、誰が」。「ケビンです」。(店長)は、しばらく(表)を見て、「(全部)の棚に貼ろう」と言った。それから、「高梨の絵が(元)か」と聞いた。「元は僕ですが、使えるのはこっちです」と答えた。店長は(紙)を軽くたたいて、(事務所)に(戻った)。
その月から、(新しく)入った(バイト)には、(最初に)その表を渡すことになった。(言葉)の説明は、あとでいい。先に(数字)を見せる。店長の判断は(速かった)。
五月、ケビンが(店)で初めて一人のシフトに入った。(朝)の八時から。僕は(昼)に(客)として行って、キャベツの(袋)と、(網で焼く)だけのソーセージを買った。(辛い)(味)のついたやつだ。レジで、ケビンが「袋はご利用ですか」と言った。(普通)の速さだった。
「お箸は」と聞かれて、「いりません」と答えた。ケビンは、(レシート)を僕に(返す)ときに、カウンターの内側の紙を(指)で(なでた)。まだ貼ってある、という合図だ。(サービス)のおしぼりも一つ、袋に入っていた。
(今も)、あの時計の(絵)は店の事務所の(壁)にある。(インク)がかすれているので、(たぶん)(そのうち)捨てられる。ケビンの表は、四つの棚と、レジの裏と、休憩室に貼ってある。僕らは夕方のシフトを(続けていて)、七時になるとどちらが先に(気づく)かを、毎回少しだけ競っている。